七十歳の波——北斎はどん底から『冨嶽三十六景』を始めた

日本美術でいちばん有名な一枚を思い浮かべてほしい。まず間違いなく、あの波だろう。爪のように裂けた波頭が、三艘の細長い舟の上で、砕け落ちる寸前のまま止まっている。では、この波を描いた人物が当時どんな状況にいたかをご存じだろうか。葛飾北斎、七十歳前後。中風から回復したばかりで、二人目の妻を亡くし、そして博打好きの孫がいた。老人はその借金を埋め続け、蓄えは底をつき、一説には絵を一枚ずつ売り歩くほど困窮していたという。
この時期に始まった版画の連作『冨嶽三十六景』は、功成り名を遂げた大家の余技ではない。もう終わったと言われて不思議のない絵師の、起死回生の勝負だった。そして、その勝負に勝った。
名前を変え続けた絵師
北斎は1760年、江戸に生まれ、生涯この町の商業出版の世界で生きた。浮世絵は当時、高尚な芸術ではなく大衆娯楽である。版元が企画し、絵師が下絵を描き、彫師と摺師が仕上げる。一枚の値段は、そば一杯とそう変わらなかった。
およそ七十年の画業のあいだに、北斎は三十を超える画号を使い、作風が変わるたびに脱皮するように名を捨てた。役者絵、美人画、風景、妖怪、そしてそれ自体がベストセラーになった絵手本『北斎漫画』。1820年代には、自らをこう署名するようになる——画狂老人。自分の境遇をどう見ていたか、この号がすべて語っている。
借金と中風と、一つの山
1820年代の終わり、不運が立て続けに襲う。妻の死。中風——伝えられるところでは、柚子と酒を使った民間療法で自ら治したという。そして何より孫である。北斎と娘の応為は繰り返し借金の尻拭いをし、家財は削られていった。この時期の書簡には、版元に前借りを頼み、自らの貧窮を包み隠さず記す老絵師の姿がある。
だから、1830年頃に版元の西村屋与八が新しい風景版画の企画を打ち出したとき、それは北斎にとって正真正銘の生計の問題だった。企画の骨子は単純にして商売上手。同じ山を、三十六の異なる場所から見る。富士は庶民信仰の対象で、夏ごとに富士講が列をなして登った。そして連作なら、買い手は切手を集めるように一枚また一枚と買ってくれる。
新しい青が、すべてを変えた
この連作がそれまでの浮世絵とまるで違って見えるのには、きわめて物質的な理由が一つある。プルシアンブルー、当時の言葉で「ベロ藍」だ。オランダ・中国貿易で入ってきたこの合成顔料が、ちょうど商業出版に使える値段まで下がった。従来の植物性の藍と違って数年で灰色に褪せることがなく、黒に近い深みから白っぽい空まで、濃淡を大きく引き延ばせる。
北斎と版元は、この新顔料を堂々と売り文句にした。連作初期の広告はベロ藍の使用をうたい、初摺がほぼ藍の濃淡だけで摺られた図もある。『神奈川沖浪裏』の海も、『凱風快晴』の赤い山肌を支える空も、この舶来の一色に懸かっている。
『凱風快晴』と『山下白雨』は対になった実験である。風景から何をどこまで削れるか。人物なし、物語なし——夜明けの山と、裾野に稲妻の走る山だけ。風景を旅人や茶屋の背景としてしか知らない観客にとって、この引き算の自信は異様なものだったはずだ。
人は忙しく、山は動かない
もっとも、連作の大半の画面はむしろ人で溢れている。そして、その誰ひとりとして富士を見ていない。これが全篇を貫く静かな冗談だ。桶職人は巨大な桶の中で身をかがめ、木挽きは梁にまたがり、旅人は突風に笠を追う。山は構図の隙間に座り、我々以外の誰にも気づかれない。
『駿州江尻』では、突風が女の懐紙を空へ巻き上げ、旅人たちは一様に体を折る。富士はただ一本の淡い輪郭線で描かれ、この騒動に何の関心も示さない。『甲州石班沢』では、岩の突端にひとり立つ漁師が釣り糸を引き絞る。踏ん張るその体の三角形が、霞の向こうの山の三角形と響き合う。
手前には懸命に生きる人間、その背後には微動だにしない山。この構造こそが連作のエンジンである。北斎は江戸のあらゆる生業と身振りを数十年描き溜めてきた。富士は、その観察の蓄積が寄りかかるための、動かぬ支点を与えたのだ。
あらためて、波を読む
ここまでを踏まえて最初の一枚に戻ると、絵は目の前で組み変わる。
描かれた舟は押送船。江戸の魚河岸へ鮮魚を急送する快速船で、乗っているのは見物客ではなく、命がけで生計を立てる男たちだ。波頭は指のように裂け、彼らを掴もうとしているかに見える。そして富士は波間の谷にあまりに小さく描かれ、初めて見る人はしばしばもう一つの波と見間違える。この絵は三つの時間を一つの画面に収めている。波の次の一秒、漕ぎ手たちの次の一刻、山の次の一万年。どの時間がいちばん重いのか、絵は何も言わない——だからこそ人は二百年近く、この一枚について議論をやめられないのだろう。
商売としても、賭けは当たった。売れ行きは版元が三十六景を四十六景まで増補するほどで、以後の十年、風景画は浮世絵の主要ジャンルにのし上がる。歌川広重がやがて自らの仕事を築くのは、まさにこの道の上だった。
あと五年
北斎は八十代まで描き続け、晩年の肉筆画には「画狂老人卍筆 行年八十八歳」といった年齢入りの署名を残した。まるで歳月そのものが画材の一部であるかのように。1849年の臨終については有名な逸話がある。あと五年命があれば、真の画工になれたものを——そう言い残したと。
その場面が本当にその通りだったかは確かめようがない。だが、その心持ちは文書が示すすべてと辻褄が合う。借金と病と死別に対して、七十過ぎの老人は一つの連作で答えた。描いたのは、動かせない一つの山と、その周りで忙しく、危うく生きる人々である。彼は自分の苦労を描かなかった。すべての人の暮らしを描いたのだ。
葛飾北斎『神奈川沖浪裏』1830–32年頃、メトロポリタン美術館
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